努力しても結果が出ないのはなぜ?——スマナサーラ長老「カボチャの種」の話と、流れにまかせてきた私
仏教コラム|スマナサーラ長老の法話から
どんな実を待つかを決めているのは、種をまいた人自身。
結果が出ないとき、見直したいのはそこでした。
こんな思いを抱えたことはないでしょうか。
- 何年も勉強したのに、志望校や資格試験に届かなかった
- 真面目に働いてきたのに、評価も給料も上がらない
- 家族のためにがんばってきたのに、感謝されない
- 独立して必死にやっているのに、お客さんが増えない
- 正しく生きているつもりなのに、物事が思うように運ばない
先日、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の法話を、動画で2本続けて聞きました。そのうちの1本が、まさにこの問いへの答えでした。
質問した方は、長老の本にある「今の瞬間を良くすれば、次の瞬間も良くなる」という考えには納得している。けれど現実には、努力と結果が結びつかないこともある。この関係をどう理解すればいいのか——そう尋ねていました。
長老の答えを、先にまとめておきます。
→ 努力と結果は、ちゃんとつながっている。ずれて見えるのは、あいだに「時間」がはさまっているから
→ どんな結果を待つかは、自分の頭の中で決めている
→ 時間のかかる結果ほど、途中で何度も手を入れる(調整する)必要がある
→ その途中で流れは変わる。だから結果は、思い描いた形どおりにはならない
長老はまず、原因と結果のあいだに時間がない例を挙げます。
スイッチを押せば、明かりがつく。ハンマーで窓ガラスをたたけば、窓は割れる。このとき結果ははっきりしていて、誰にでも予想できます。窓から花が飛び出すことも、火が出ることもありません。音さえ決まっています。瞬間の因果には、ずれがないのです。
ところが、時間が入ると話が変わります。窓を割ったあと、どうなるか。警察が調べて弁償になるかもしれない。犯人が見つからず、うやむやになるかもしれない。こじれて、もっと大きな争いになるかもしれない。
時間が流れるあいだに、ほかの原因や条件がどんどん加わっていく。だから、最初の一打だけを見て結果を言い当てることはできない。長老はそう説明していました。
あなたが「報われない」と感じていることは、スイッチのようにすぐ結果が出るものでしょうか。それとも、種をまいて育てるような、時間のかかるものでしょうか。
ここで長老は、カボチャの種のたとえを出します。私がいちばん心に残ったのは、この部分でした。
カボチャの種をまいたとします。何を「結果」とするかで、待つ時間はまったく変わります。
同じ一粒の種なのに、「待っている結果」を決めているのは、種をまいた人の頭の中です。
人生も同じだと長老は言います。わが子を医者にしたいなら、大学を出て、試験に受かって、働き始めるまで、長い時間がかかる。会社に入ったばかりの人が「都心に家を建てたい」と言えば、何十年もがんばることになる。望む結果が大きいほど、時間も長くなるのです。
では、努力と結果が「一致しない」というのは本当でしょうか。長老はこう問い返します。カボチャの種をまいて、キュウリが出てきたことがありますか、と。
出てくるのは、ちゃんとカボチャです。ただ、思い描いていたようなきれいな丸ではなく、少し曲がっているかもしれない。壁ぎわで育てば、壁に当たった面だけ平らになる。カボチャは、伸びたいほうへ伸びて、じゃまがあればそこで止まるだけだからです。
四角いスイカを作りたいなら、種をまいたあとも、肥料や水をやり、日の当たり方を見て、花が咲いて受粉したかまで確かめる。そして、実が大きくなる時期に、四角い型に入れてやる。それをしなければ、四角にはなりません。
結果が出るまでの時間が長いなら、そのあいだに、いろいろな原因を足していかなければならない。種をまいただけでは足りない。
「努力が報われない」のではなく、「種をまいたあと、途中で手を入れていなかった」ことがある。時間のかかる結果ほど、途中の調整が大切になります。
ここまで書いておいて何ですが、正直に言うと、私自身は「努力したのに結果が出ない」と強く感じたことが、あまりありません。
理由を考えてみると、そもそも「がんばって結果をつかみ取った」という覚えが、ほとんどないのです。
大学は電子情報工学科で、卒業してソフトウェア会社に入りました。人づきあいが苦手で、会社員は難しいだろうと思いつつ、技術者としてならやっていけるかもしれない——そんな淡い期待だけでした。2年で辞めたときも、「まあ、そうだろうな」という気持ちでした。
札幌に戻り、両親と3人で暮らしていたころ、定山渓の温泉に出かけた日に、ふと思ったのです。小さな事務所なら、自分でも借りられるんじゃないか、と。それで、豊平川が見える小さなアパートの一室で、社会福祉士の事務所を始めました。大学時代の恩師・久野信先生や、会社員時代に出会った本多信一さんの影響で、人の相談に乗るような仕事がしたい、と自然に思っていたからです。
当然、収入はありません。そこで「福祉の便利屋」のチラシを作りました。草むしり、買い物、病院の付き添い。それがきっかけで、気づけば訪問介護やケアマネジャーの会社をやっていました。最初のお客さんは、久野先生でした。
その会社は10年ほど続けました。けれど、やがて立派な病院や建設会社が、グループホームといっしょに訪問介護やケアマネの事業を始めるようになりました。ライバルが増えれば、小さな会社のお客さんが減るのは当然のことです。閉めるのは大きな決断でしたが、振り返れば自然な流れでした。
そのあと、数年ぶりに東京の本多さんを訪ねました。本多さんは「これからはNPO法人をつくる人が増えるから、行政書士はどうか」「北海道にはこれから外国からの観光客が押し寄せる」と話してくれました。私はそれから行政書士の勉強を朝から晩まで続け、そのついでのように社会保険労務士の資格も取りました。いま私が暮らしていけているのは、その社労士の仕事のおかげです。
こうして並べてみると、計画して努力した結果というより、そのときどきの流れにまかせていたら、ここにいた、という感じです。
でも、長老の話を聞いて気づきました。私の人生も、因果の外にあったわけではないのです。会社を辞めたこと、温泉で思い立ったこと、チラシを作ったこと、先生が最初のお客さんになってくれたこと、本多さんのひと言。ひとつひとつが「原因」として足されていき、今の形になった。
長老の言う「途中の調整」を、私は自分でやったというより、たくさんの縁がやってくれた。そう言ったほうが近い気がします。
今の仕事や暮らしを振り返ってみると、計画していなかった出会いや、偶然のひと言でできている部分はないでしょうか。思い通りにならなかったことも、次の縁の入り口になっていたかもしれません。
私が「報われない」と感じることが少なかったのは、たぶん、自分の力とかけ離れた大きな結果を、あまり思い描かずに生きてきたからだと思います。
たとえば東大を目指す人は、たいてい東大に手が届きそうな環境にいます。医者を目指す人も、本人の力や、親が医者であることなど、何かしらの環境に背中を押されていることが多いでしょう。私の場合は、大学も「入れたらラッキー」くらいの気持ちでした。
夢を持つな、と言いたいのではありません。大きな実を待つなら、それだけ長い時間と、途中の手入れが必要になる。それを知っているかどうかで、苦しさがずいぶん違う、ということです。
長老は、もうひとつ大事なことを言っていました。「自分は真面目にやっているのだから、良い結果になるはずだ」と強く期待しないこと。
真面目に勉強したら先生にほめられるはず。家のことをがんばったら家族に感謝されるはず。でも、相手がどんな態度をとるかは、わからないのです。長老ご自身も、どれだけ真剣に生き、教えを説いても、周りが認めてくれるとは限らないと、自分の例を挙げて淡々と話されていました。そして、それで悩んでもいない、と。
さらに長老は、地震の話をしました。1年かけて準備した旅行が、出発前日の地震で中止になる。そこで「なぜ私が」と考えても意味がない。それは誰かのせいではなく、「ものの流れ」なのだと。
原因が集まって結果になり、その結果がまた次の原因になる。その連なりの中で、どんな条件がそろうかは誰にもわからない。だから未来は読めないし、占いや予言は成り立たない。成功したら、それでいい。失敗したら、それもそれでいい——長老はそう締めくくっていました。
「報われない」苦しさは、結果そのものよりも、頭の中で描いていたイメージとの差から生まれることが多い。結果を思い通りにすることはできなくても、イメージへのしがみつきは、少しゆるめることができます。
もう1本の動画で、長老は「環境」の話をしていました。修行がうまくいかないのは周りのせいだ、という相談への答えです。
寒さに文句を言っても、寒さは消えない。空気が汚れていても、呼吸をやめるわけにはいかない。「周りがうるさくて瞑想できない」というのは、誰かに周りを静かにさせてほしい、ということでしょうか、と。
人は環境の中で生きている。環境をわがままで変えることはできない。その環境の中でどう生きるかは、一人ひとりの宿題である。
夫婦の例も出ていました。片方は仏教に興味があり、もう片方はまったく関心がない。そんなとき、相手を責めるのではなく、相手には相手の生き方がある、と理解する。そして自分は自分の道を歩けばいい。相手に自由をあげることだ、と。
「自分は自分、他人は他人」。この言葉は、私にもすっと入ってきました。
ただ、「環境のせいにする」という点も、私にはあまり当てはまらない気がしました。どちらかというと、人のせいにするより、自分のせいにする傾向が強かったからです。
気が弱く、「こうなったらどうしよう」と先回りして、あれこれ対策をしてしまう。介護の会社を閉めたときも、参入してきた大きな会社を恨む気持ちは、あまりありませんでした。競争が激しくなれば、打ち勝てない小さな会社が残れないのは当たり前だ、と思っていました。
それでも、長老の「生きることは自分の宿題」という言葉には、うなずくところがありました。あれもこれもと宿題をこなしているうちに、人生はあっという間に過ぎていく。その中で、どう生きるか。毎日そんなことを考えているわけではありませんが、環境は変えられないものとして受け止め、目の前の宿題をひとつずつ片づけていく。結局、私がやってきたのは、それだけだったのかもしれません。
うまくいかないとき、周りのせいにしがちでしょうか。それとも、自分ばかり責めてしまうでしょうか。どちらの場合も、「変えられないもの」と「自分にできること」を分けてみると、肩の力が少し抜けることがあります。
長老の話と、私自身の経験から、今日から試せることを4つにまとめました。
あなたが待っているのは、茎ですか、葉ですか、それとも実ですか。紙に書き出すと、自分が思っていたより大きな結果を、短い時間で求めていたことに気づくことがあります。
実を待っているのに、葉の時間で判断していないか。「まだ出ていない」のか「出ない」のかを分けるだけで、焦りはかなり小さくなります。
人に会う、少し学ぶ、試してみる、誰かに相談する。四角いスイカの「型」のように、途中で足す小さな原因が、結果の形を変えていきます。思いがけない縁が来たら、乗ってみるのも一つの手入れです。
長老は、お釈迦様の教えとして、一日単位で生きてみることをすすめていました。今日は怒らないようにする、今日は時間をむだにしない。長老自身も失敗すると笑っていましたが、遠い結果を心配するより、今日の自分のふるまいを決めるほうが、ずっと確かです。
そうとは限りません。長老の話では、努力と結果はつながっていて、ずれて見えるのは時間がはさまっているからです。量を増やすより、「待っている結果は何か」「途中で手を入れているか」を見直すほうが、近道になることがあります。
待つだけでは足りない、というのが長老の考えです。種をまいて放っておくと、思った形にはなりません。時間のかかる結果ほど、水や肥料をやるように、途中で何度も小さな調整を重ねることが大切です。
我慢とは少し違います。寒さを消すことはできなくても、上着を着ることはできます。環境そのものを自分の都合で変えることはできなくても、その中で自分がどう動くかは選べます。その場を離れることも、環境に合わせるやり方の一つです。
長老は、原因と条件がどう重なるかは誰にもわからないので、未来は読めないと話していました。読めない先を考え続けるより、今日一日をどう過ごすかに目を向けてみてください。それでも不安が強くて眠れない、日常に支障が出ているときは、一人で抱えず、専門家や相談窓口に話してみることをおすすめします。
→ 瞬間の因果にはずれがない。ずれて見えるのは、時間がはさまる結果
→ どんな結果を待つかは、種をまいた人が頭の中で決めている
→ カボチャの種からキュウリは出ない。違うのは「形」で、それは途中の調整で変わる
→ 「良い人間だから良い結果になるはず」と強く期待しない。流れは変わるもの
→ 環境は変えられない。その中でどう生きるかは、自分の宿題
私は、大きな努力で何かをつかみ取ってきた人間ではありません。流れにまかせ、そのときどきの縁に押されて、ここまで来ました。それでも、振り返ってみれば、ちゃんと因果の中を歩いてきたのだと、長老の話を聞いて思いました。
もし今、「こんなにやっているのに」と苦しんでいるなら、あなたが待っている実の大きさと、そこまでの時間を、一度いっしょに見直してみませんか。会社員としての働き方に迷っている方、独立を考えている方のお話も、うかがっています。
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