気づいたら、また考えごとをしていた——人は一日のほとんどを「とらわれて」過ごしている
因果のはなし
歩きながら、お腹の「膨らむ、縮む」に意識を向ける。朝の散歩で続けている瞑想です。
調子のいい日は、いつもより長く集中できます。それでも、いつの間にか別のことを考えている。しかも、同じ考えの中をしばらくぐるぐる回っている。
「あ、またやってる」と気づいて、お腹に戻る。少しするとまた流される。——こういうこと、瞑想をしていなくても、ありませんか? 仕事中でも、家事の途中でも、気づいたら頭の中だけ別の場所にいる。
スマナサーラ長老は、この状態を「束縛」と呼んでいます。人は自由に生きているつもりで、実は自分の心に縛られている、というのです。
長老の話を短くまとめると、私たちを縛っている鎖は3本あります。
| 怒り | 嫌いな人のことが頭から離れない。怒っている限り、その人に縛られ続ける |
|---|---|
| 欲 | 好きなものが気になって仕方ない。洋服でも趣味でも、こだわるほど自由が減る |
| 無知 | 物事のありようがわかっていない。いちばん強い鎖 |
おもしろいのは、怒りの相手はたいてい「身近な人」だという指摘です。会うこともない人を、ずっと恨み続けるのは難しい。だから怒りを抱えると、毎日顔を合わせる場所が、そのまま檻のようになってしまいます。
長老は、来日したばかりのころの体験を語っています。字が読めない、道もわからない、切符も買えない。それだけで、泊まっている部屋から外に出られなくなってしまったそうです。
知らない国に放り出されたとき、人は一歩も動けなくなります。仏教でいう「無知」は、道や言葉のことではありません。心がどう動いて、何が苦しみを生んでいるのか——そこがわかっていない状態です。
わかっていないから、考えが勝手に回り出しても気づけない。気づけないから、回され続ける。知らない街で迷子になったまま、迷子だと気づいていないようなものです。
こう考えると、少し怖くなります。
集中できているのは、朝のほんの数分。それ以外の時間は、ほとんど何かの考えに引っぱられている。そうしているうちに一日が終わり、一週間が過ぎ、気づけば何年も経っている。
とはいえ、山にこもるわけにはいきません。仕事をしなければ暮らしは成り立たないし、家族のことも考えなければならない。しょうがない面は、たしかにあります。
では、私たちはずっと囚人のままなのでしょうか。
ここで見方を少し変えてみます。
考えにとらわれている間、私たちは自分がとらわれていることを知りません。「あ、またやってる」と気づいたその瞬間だけ、鎖の外に出ています。
だとすれば、大事なのは「どれだけ長く集中できたか」ではなく、「何回戻ってこられたか」なのかもしれません。流されるのは失敗ではありません。戻ってくるたびに、ほんの一瞬、自由を取り戻しているのです。
長老はもうひとつ、因果の視点も示しています。束縛の原因になっているもの——言われた言葉も、欲しいものも——はどれも移り変わっていく。原因が永久でないなら、その鎖も永久ではない。外せないものではないのです。
とらわれている時間をゼロにする必要はない。気づいて戻る回数を、一日に少しずつ増やしていく。
ずっと気を張っているのは疲れます。それより、一日の中に「戻る場所」をいくつか置いておくほうが続きます。
- パソコンを開く前に、ひと呼吸だけ数える
- 信号待ちやエレベーターの中で、足の裏の感覚を感じる
- お茶を飲むとき、最初のひと口だけ味わうことに集中する
- 同じ考えを3回くり返していたら、「ぐるぐる中」と心の中でつぶやく
どれも数秒で終わります。仕事を止める必要もありません。朝の散歩のような特別な時間がなくても、こうした小さな「戻り道」は、一日のどこにでも作れます。
長老自身、家族を捨てなさいという意味ではないと断っています。大切に思うこと自体を否定しているのではなく、それに振り回されて自由を失っていないか、と事実を見るための話です。
考えが浮かぶのは誰でも同じです。大切なのは、流されたことに気づいて戻ること。気づけた時点で、その瞑想はちゃんとできています。
まとまった時間はなくても大丈夫です。ひと呼吸、ひと口、数秒の「戻り道」を一日に何回か置くだけでも、考えに振り回される時間は少しずつ変わっていきます。
同じことを考え続けてしまう。
このままでいいのか、ふと不安になる。
うまく言葉にならなくても大丈夫です。
五合庵社会福祉士事務所(札幌市白石区)・全国対応

