瞑想の雑念はなぜ止まらない?——心の中で「いろんな自分」が戦っている
こんな経験はありませんか。
甘いものは控えようと決めていたのに、夕方のスーパーで半額シールの貼られたお菓子を見た瞬間、「まあ、今日はいいか」とカゴに入れてしまう。
私もしょっちゅうです。そして不思議なのは、カゴに入れるその瞬間、「控えよう」と思っていた自分が、どこにもいないことです。言い負かされたというより、その場からいなくなっている。家に帰って食べ終わったころに、ふっと戻ってくるのです。
控えたい自分と、食べたい自分。いったい、どちらが本当の自分なのでしょうか。
朝の瞑想では、お腹の「膨らみ・縮み」に気づいていく方法を続けています。最近はお風呂の中でも試しています。
けれど、10秒もしないうちに、昨日あった出来事や、これからの予定のことを考えている。気づいてお腹に戻しても、またすぐに流されてしまう。瞑想をしたことがある方なら、きっと同じ経験があると思います。
あるとき、ふと思いました。これは、スーパーの売り場と同じことが起きているのではないか、と。
お腹を見ていようとする自分のところへ、過去を思い返す自分や、先を心配する自分が割り込んでくる。そして気づいたときには、主役が入れ替わっている。
瞑想中の雑念は、「集中力が足りない」というより、別の自分が前に出てきた瞬間なのかもしれません。
そんなことを考えていたとき、テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老が、YouTubeで公開されている法話の中で、まさにこのことを語っていました。私なりに要点をまとめると、こういう内容です。
- 「わたし」は一つの固い塊ではない。心の中には、たくさんの自分が同時にいる
- 話を聞いている自分、聞き流している自分、反論している自分、まったく別のことを考えている自分が、同じ瞬間に絡まり合っている
- それらの自分は心の中で争っていて、勝った自分が、行動として表に出る
- 仏教心理学(アビダルマ)では、心の働きを「心所(しんじょ)」として分けて数えている。欲(ローバ)の働きは欲の自分、怒り(ドーサ)の働きは怒りの自分、と見ることができる
- 一人ひとりの自分は力が弱いので、いくつかの自分がグループを組み、別のグループと戦っている
これを聞いて、スーパーの売り場で起きていたことが腑に落ちました。欲の自分が仲間を集めて、控えたい自分のグループに勝った。ただそれだけのことだったのです。
そして、勝った側が出てきたとき、負けた側は文字どおり「いなくなる」。控えたい自分が売り場で消えてしまうのは、私の意志が特別に弱いからではなかったのだと思いました。
ふつうは、こう考えますよね。控えたい自分を鍛えれば、食べたい自分に勝てるはずだ、と。意志を強くする、自分を律する。私もずっとそう思ってきました。
長老は、そこに疑問を投げかけます。
美しいという考えは、醜いという考えがあって初めて成り立つ。良いという判断は、悪いというイメージがなければできない。磁石も、片方の極だけでは成り立たない。物事は反対のものがあって初めて成り立つのだから、悪い自分を消して良い自分だけを残そうとしても、それは原理的にうまくいかない——という話です。
弱気な自分を消して強気な自分を育てる、落ち込む自分を消して明るい自分だけにする。自己啓発でよく言われることも、結局は「一部の自分の肩を持とうとしている」だけだ、と長老は指摘しています。
思い当たることがありました。甘いものを我慢する自分を応援すればするほど、食べたい自分は消えずに残り、次の売り場でまた同じ戦いが始まる。勝ったり負けたりをくり返して、戦いそのものは終わらないのです。
ただし長老は、「どの自分の肩も持つな」と言っているわけではありません。その瞬間の自分の言うとおりに動いていたら、生活は成り立たない。だからふつうの人は、常識の範囲で「良い」と思える自分たちの肩を持って、なんとか生きている。それが一般的な生き方だ、とも話しています。
つまり、肩を持つこと自体が悪いのではなく、「良い自分だけになれる」と思い込むことが、苦しさのもとなのだと私は受け取りました。
この法話の出発点は、仏教でいう「わたしという実体はない」という教えでした。
私たちには、「自分がいる」という実感があります。けれど長老は、それは「わたしが感じている」のではなく、ただ「感じていることがある」だけではないか、と問いかけます。「わたし」という主語は、言葉の都合で後から付け足しているのではないか、と。
英語で言えば、”I am feeling” ではなく、”there is feeling”。
そして大事なのは、長老がこれを「信じなさい」とは言っていないことです。あくまで仮説として、自分で確かめてみなさい。瞑想は宗教的な儀式ではなく、それを確かめるための実験なのだ、と語っています。
この「実験」という言葉で、瞑想への向き合い方が少し変わりました。
雑念に流されるたびに、「また集中できなかった」と落ち込んでいました。でも実験だと思えば、流された瞬間こそが観察の材料です。さっきまでお腹を見ていた自分が、もう別の自分に入れ替わっている。入れ替わってしまうのなら、ずっと変わらない一人の「わたし」は、いったいどこにいるのだろう——。
「自分なんていない」と聞くと、少し怖く感じるかもしれません。
私の理解では、これは「何も感じない」「何もない」という意味ではありません。感じること、考えることは、たしかにある。けれど、それを全部まとめて持っている「変わらない持ち主」が、探しても見つからない。あるのは、一瞬ごとに入れ替わる、勝った自分だけ。
売り場で消えてしまう「控えたい自分」は、そのいちばん身近な証拠なのかもしれません。

半額シールの前で負けても、瞑想が10秒しかもたなくても、それはあなたがダメだからではありません。心の中でいつも起きている自分たちの入れ替わりが、その場で表に出ただけです。
以前の記事で、煩悩は消さなくていい、「あ、またやってる」と気づくだけでいい、と書きました。今回の話は、その続きだと感じています。
気づくとは、どの自分にも肩入れせずに、「いま、食べたい自分が出てきた」「いま、先のことを考える自分が出てきた」と、ただ見ていくこと。戦いに加わるのではなく、戦いを見ている、という立ち位置です。
→ 瞑想中に考え事に気づいたら、「集中できなかった」ではなく「別の自分が出てきた」と心の中でつぶやいてみる
→ 売り場で手が伸びたときも、止めようとする前に「いま、食べたい自分が勝っている」と一度だけ見てみる
内向的で、自分を責めやすい人ほど、「弱い自分」をなくそうと頑張ってしまいがちです。でも、弱い自分がいなくなることはありません。それを知るだけでも、少し肩の力が抜けるのではないでしょうか。
長老の法話は、この先「では、どうすればいいのか」という核心へ進んでいきます。私はまだ最後まで聞けていないので、続きを聞いてから、またここに書きたいと思います。
失敗ではありません。考え事に流されたことに気づけた時点で、心の動きをひとつ観察できています。雑念は「別の自分が前に出てきた瞬間」と捉えると、瞑想の材料になります。
感じることや考えることがない、という意味ではありません。それらをまとめて持っている「変わらない一人のわたし」が見つからない、という意味です。スマナサーラ長老は、これを信じるのではなく、瞑想という実験で自分で確かめるよう勧めています。
仏教心理学(アビダルマ)で、心に伴って起こるさまざまな働きを分類したものです。テーラワーダ仏教では52種類に分けられ、欲や怒りなどもその一つです。長老は、この一つひとつの働きを「一人の自分」と見ることができると説明しています。
心の中では、食べたい自分と控えたい自分がいつも争っていて、その場で勝ったほうが行動になります。誰にでも起きていることなので、自分を責める必要はありません。まずは「いま、どちらの自分が勝っているか」に気づくことから始めてみてください。
考えすぎてしまう、つい自分を責めてしまう。
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