コーヒーを淹れた瞬間、また眠りにつく——起きていても「眠っている」一日
因果のはなし
朝、40分ほど歩きながら、足の運びやお腹の動きに意識を向けています。
歩いているうちに、いつの間にか別のことを考えている。仕事の段取り、昨日の出来事、これからの心配。そこで「あ、また妄想していた」と気づいて、足の感覚に戻る。
この「気づく」回数が、少しずつ増えてきました。集中が長く続くようになったわけではありません。ただ、流されている自分に気づける瞬間が、前より多くなったのです。
ところが、です。
散歩から帰って、コーヒーを淹れる。一日が始まります。そこから先は、散歩のときの「気づき」とはまったく縁のない時間になります。
仕事のことを考え、次は何をしようかと考え、「お腹がすいた、何を食べよう」と考える。仕事がひと段落すると「今日もよく集中した」と満足し、おいしいものを食べ、お風呂に入り、「今日は何の映画を見ようか」と考える。寝る支度をして映画を見て、一日が終わる。
振り返ると、その間に「あ、今考えていた」と気づいた瞬間が、ほとんどありません。一日中、考えごとの流れに乗ったまま、運ばれていくだけなのです。
こういうこと、ありませんか? 朝の数分だけは心が落ち着いているのに、気づけば夜になっている。その間、自分がどこにいたのか、よく思い出せない。
スマナサーラ長老の法話に、ちょうどこの状態を言い当てた話がありました。相応部というお経の中で、女神がお釈迦さまに「起きているのに眠っているものは何か、眠っているのに起きているものは何か」と尋ねる場面です。
長老の解説を、私なりにまとめるとこうなります。
怒りや欲などの感情にとらわれている心は、目を開けて活動していても、現実ではなく自分の頭の中の「夢」を見ている。だから起きていても眠っているのと同じ。
長老はユーモアを込めて、こういう状態の人を「ゾンビ」とまで呼んでいます。体は動いているのに、心はここにいない。
もうひとつ、なるほどと思ったのが「あらかじめ設定したプログラム」という話です。私たちは、見たいもの・聞きたいものを心の中で先に決めていて、現実がその設定に合えば「いい」、合わなければ「嫌だ」と反応している。お店の服やきれいな花が、こちらの心に欲を起こそうとしているわけではありません。反応を作っているのは、いつも自分の側なのです。
「お腹がすいた、何を食べよう」も、「今日は何の映画を見よう」も、悪いことではありません。でもその間、私は目の前の現実ではなく、頭の中のプログラムを眺めている。そう考えると、コーヒーから先の一日は、たしかに「起きていても眠っている」時間でした。
お釈迦さまは、心を眠らせているものを5つ挙げています。仏教で「五蓋(ごがい)」と呼ばれるものです。長老の解説を、日常の言葉に置きかえてみます。
| 欲 | 心地よいもの、好きなものを追いかけ続ける |
|---|---|
| 怒り | 思いどおりにならない現実を、はねつけようとする |
| だるさ | ちゃんと向き合うのが面倒で、ぼんやりしていたくなる |
| 上の空・後悔 | 物事を雑に受け取る。過去の失敗をくよくよ引きずる |
| 疑い | 確かめもせずに否定する。いつまでも決めきれない |
自分の一日に当てはめてみると、思い当たることばかりです。「何を食べよう」は欲、映画を選んでいる時間もたいていは欲。仕事中に「なんでこうなるんだ」と思うのは怒り。夜、気づきを続けられないのは、だるさかもしれません。
ただ、長老は「疑い」には2種類あると言っています。調べもせずに否定する疑いは心のブレーキですが、「証拠を確かめてから受け入れる」という疑いは、成長に必要なもの。何でも鵜呑みにしない姿勢まで否定しているわけではないのです。
夜中にふと目が覚めたとき、お腹の「膨らむ、縮む」を感じてみることがあります。暗くて静かな中で、呼吸だけを見ていると、少しだけ朝の散歩の感覚が戻ってきます。
でも、長くは続きません。いつの間にかまた考えごとに流され、そのまま眠ってしまう。
朝の40分と、夜中の数分。一日の中で「起きている」のは、その程度の時間です。残りのほとんどは、眠ったまま過ごしている。正直に言えば、それが今の私の現実です。
この話の一番こわいところは、眠っていることに気づいていない点だと思います。
一日中、妄想の中にいる。それが人間にとって当たり前の日常で、だから誰も疑問に思わない。気づかないまま一日が終わり、一年が終わり、そのまま一生が終わってしまう。
夢の中にいる人は、それが夢だとは思っていません。目が覚めて初めて「ああ、夢だったのか」とわかる。昼間の妄想も同じで、「あ、また考えていた」と気づいた瞬間に、ようやく自分が眠っていたことがわかるのです。
長老によれば、5つのブレーキに対して、心を目覚めさせる5つの力もあります。信頼・努力・気づき・集中・智慧。この2つのグループは心の中に同居できないので、良いほうを育てていけば、ブレーキのほうは自然と働かなくなっていく、というのです。
「また妄想していた」と気づいた瞬間だけは、たしかに目覚めている。その瞬間を、一日の中で少しずつ増やしていけばいい。
答えは、まだ出ていません。朝は気づけるのに、コーヒーを淹れた瞬間から眠りに入っていく。それが今の私の段階です。
ただ、一日中眠っていることに「気づいた」こと自体は、ひとつの変化かもしれません。以前は、眠っていることにすら気づいていなかったのですから。
もし同じように感じている方がいたら、一日のどこかに小さな「目覚まし」を置いてみるのはどうでしょう。
- コーヒーやお茶を淹れるとき、お湯の音と香りだけに気持ちを向ける
- 食事の最初のひと口だけ、味わうことに集中する
- お風呂に入った瞬間、お湯の温かさを感じてから考えごとに戻る
- 映画を選ぶ前に、ひと呼吸だけ「今、何を求めているか」を見てみる
私もまずは、コーヒーを淹れる数分から試してみようと思います。散歩のときのように気づける時間が、朝の40分の外に少しでも広がっていけば、それで十分です。

体は起きて活動していても、心が感情や考えごとにとらわれていて、目の前の現実をありのままに見ていない状態のことです。長老は、感情にとらわれた心は、頭の中の「夢」を見ているのと同じだと説明しています。
心の成長を妨げる5つのブレーキのことで、欲、怒り、だるさ・眠気、落ち着きのなさ・後悔、疑いを指します。これらが働いている間、心は「起きていても眠っている」状態になると仏教では考えます。
多くの人がそうだと思います。一日中気づき続けようとすると疲れてしまうので、お茶を淹れる、食事のひと口目など、日常の中に短い「目覚まし」をいくつか置いてみるのがおすすめです。気づけた瞬間が、少しずつ増えていけば十分です。
楽しむこと自体を否定しているわけではありません。大切なのは、楽しんでいる間も「今、欲が動いているな」と気づけているかどうか。気づかないまま流されている状態を、仏教では「眠っている」と表現しているのです。
毎日が、気づけば流れていく。
考えごとが頭から離れない。
うまく言葉にならなくても大丈夫です。
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