「食べたい」のか「食べたいだけ」なのか。56歳、甘いものと向き合ってみた
人生相談コラム
〜 食べたいのか、食べたいだけなのか 〜
毎朝4時半に起きて、近所の神社まで歩いて、少しのあいだ座ってきます。帰ってくるとまだ6時前です。
頭の中は静かになっているはずなのに、台所に立った瞬間、もう考えているのです。今日の昼は何にしようか。あの店のあれが食べたい。そういえば戸棚にまだお菓子が残っていたな、と。
56歳になりました。この歳になっても、私の一日はかなりの時間を「何を食べるか」に使っています。甘いものが我慢できません。食べないほうがいいと分かっている夜ほど、なぜか手が伸びます。
この文章は、それを克服した人間が書いているものではありません。今も執着したままの人間が、ときどきだけ、するりとそこから抜けられる瞬間があって、そのときに何が起きているのかを書いています。
あるとき、ふと気づいたことがあります。
お腹は、鳴っていないのです。
昼をしっかり食べた三時間後。胃は明らかに満ちている。それなのに、甘いものが欲しい。つまりこれは、体が「足りない」と言っているのではない。体ではなく、心のほうが呼んでいるのです。
私たちはこの二つを、ずっとひとまとめにして「お腹が空いた」と呼んできました。でも本当は別物です。
空腹=体からの信号。食べたい=心からの信号。この二つは、まったく別のところから来ています。
仏教では昔から、人間が外の世界を受け取る窓口は六つしかない、と説明されてきました。目、耳、鼻、舌、体、そして心です。
この考え方が面白いのは、ひとつの窓口は、ごく一部しか受け取っていないという点です。
- 目が受け取っているのは、形と色だけ
- 鼻が受け取っているのは、香りだけ
- 舌が受け取っているのは、味だけ
- 手が受け取っているのは、かたさと温度だけ
目の前のケーキひとつをとっても、私はその全体を知ってはいません。ばらばらに届いた断片を、頭の中で組み立てて「あのケーキは最高だ」と思い込んでいるだけなのです。
思い当たることがあるはずです。風邪をひいた日に、大好きなうなぎを食べても、ちっともおいしくない。イライラしている日は、好きな音楽さえうるさく感じる。
これは、おいしさが食べ物の側にあるのではないということです。おいしさは、こちらの状態の側にある。
同じケーキが、日によって最高にもなれば、なんでもないものにもなる。だとすれば、私が追いかけているのは本当にそのケーキなのでしょうか。
私たちは、生きている実感がほしくて刺激を求めます。そして刺激の中で、いちばん手軽で、いちばん確実なのが食べることです。
だから、いろいろな理由をつけて食べます。
- 流行っているらしいから
- せっかくここまで来たから
- 体にいいと言われたから
- 疲れているから、これくらいは
- なんとなく、口が寂しいから
気がつくと、私は「食べている」のではなく「食べさせられている」。主導権が、いつのまにか食べ物のほうに移っているのです。
これは意志が弱いという話ではないと思っています。人間がもともとそういう仕組みで動いているというだけのことです。
ここからが、この記事でいちばん書きたかったことです。
家に、お菓子があります。あるとわかっているのです。そして夜になると、体が勝手に動きます。台所に立って、引き出しに手をかけている。何かを決めた記憶はありません。気がついたら、もうそこにいるのです。
引き出しを半分ほど開けたところで、ふいに、こう思うことがあります。
「あっ、これは空腹じゃない。食べたいだけだ」
そうすると、手が止まります。そのまま、すっと引き出しを閉じて、台所を出られる。そういう日があるのです。
大事なのは、このとき我慢していないということです。歯を食いしばってこらえたわけでも、意志の力で勝ったわけでもありません。
気づいた瞬間に、欲しさのほうが、勝手にしぼんだのです。
あれだけ強く私を引っぱっていたものが、こちらが正面から見た途端、ふっと力を失う。あの感覚は、経験してみるとちょっと不思議です。
正直に書きます。うまくいくのは、三回に一回くらいです。
「あっ」と気づいたのに、そのまま食べてしまう日もあります。気づきさえしないで、食べ終わってから「また食べたな」と思う日もあります。
でも、それでいいのだと今は思っています。うまくいかなかった日は、単にうまくいかなかっただけで、失敗ではありません。気づけた日が、ちゃんとある。それが事実です。
私がやっているのは、この三つだけです。どれも「減らす」ための方法ではありません。気づく回数を増やすための方法です。
口に入れる前に、二秒でいいので形と色と香りを見ます。じっと睨むのではなく、ただ普通に眺めるだけです。この二秒が、自動操縦を一度切ってくれます。
全部をゆっくり食べるのは、私には続きませんでした。だから一口目だけです。これ以上は噛めないというところまで噛んで、味がどう変わっていくかを見てみる。不思議なもので、一口目を丁寧に扱うと、その後の食べ方が少し落ち着きます。
「今のこれは、空腹か。それとも食べたいだけか」
答えが出なくてもかまいません。聞いた時点で、もう気づいているからです。
減らすことが目的になると、今度は「減らせない自分」を責めはじめます。それは執着がひとつ増えただけです。ここでやっているのは、あくまで気づくところまでです。
以前このサイトで、煩悩は消さなくていい、「あ、またやってる」と気づくだけでいい、という話を書きました。食欲もまったく同じでした。
56歳になっても、甘いものはやめられません。今日も何を食べようかと考えています。たぶん来年も同じでしょう。
それでも、以前は週に一度も気づけなかったものが、今は二度くらい気づけるようになりました。引き出しを閉じられる日が、少しだけ増えた。
私にとっての進歩は、その程度のものです。でも、それで十分だと思っています。気づけた瞬間だけ、私は食べ物ではなく自分の側に戻っているからです。
もし今、同じように食への執着で自分を責めている方がいらっしゃったら、こうお伝えしたいのです。意志が弱いのではありません。人間はもともとそうできている。だから戦わなくていい。ただ、引き出しに手をかけたその瞬間に、一度だけ気づいてみてください。
Q. 食べてしまうのは、意志が弱いからでしょうか?
Q. 気づいても結局食べてしまいます。意味がないのでは?
Q. これはダイエットの方法ですか?
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