小さなことを気にしすぎるのはなぜ?——心が「大事件」に育ててしまうしくみと、二人の師の教え
久野信先生シリーズ② 妄想篇
起きたことは、ほんの小さなこと。
それを「大事件」に育てているのは、自分の心でした。
こんなことはありませんか。
- 送ったメッセージに返事がないだけで、「怒らせたかもしれない」と考え続けてしまう
- 会議でひとこと言いまちがえたことを、夜になっても思い出してしまう
- 一度うまくいかなかったことを、「次もきっと失敗する」と思いこんでしまう
- 人の何気ないひとことが、何日も胸に刺さったままになる
- まだ起きていないことを想像して、先に疲れてしまう
周りからは「気にしすぎだよ」と言われる。自分でもそう思う。それでも、頭が勝手に考え続けてしまう。
先に結論をお伝えします。
起きた「事実」は、たいてい小さなことです。
それを大きくしているのは、心がつけ足す「物語」です。
物語をつけ足している自分に、その瞬間に気づく。それを小さく積み重ねていけばいい。
これは、私が大学生のころに恩師の久野信(くの・まこと)先生から教わったことです。何十年もたってから、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の法話の中にも、まったく同じことが書かれているのを見つけました。
まず、わかりやすい例から考えてみます。
歩いていて、うっかり木の幹にぶつかったとします。痛いし、「あいたっ」とは思います。でも、木に向かって本気で怒る人はまずいません。犬が足にぶつかってきても、「おっと」で終わることがほとんどです。
ところが、駅で人の肩がぶつかったときはどうでしょう。同じくらいの痛さなのに、急にカッとなったり、そのあともしばらくイライラが続いたりします。
事実:体がぶつかった。少し痛い
心の中:「あいたっ」
そのあと:すぐ忘れる
事実:体がぶつかった。少し痛い
心の中:「わざとだ」「謝りもしない」「ばかにされた」
そのあと:何時間も思い出して腹が立つ
起きたことは、どちらも「体がぶつかった」だけです。違うのは、心がつけ足した物語のほうです。相手が人だと、心は「この人は私をどう思っているのか」「私は軽く扱われたのではないか」という話を、勝手に作り始めます。木には、そういう物語のつけようがありません。
仏教では、この「事実に勝手につけ足される物語」のことを、妄想と呼びます。妄想といっても、特別なことではありません。私たちは一日中、ほとんど休みなく、この物語を作り続けています。
最近、腹が立ったことや、気になって眠れなかったことを一つ思い出してみてください。実際に起きた「事実」は何でしたか。そして、そこに心がつけ足した「物語」は何でしたか。
こんなことを書いているのは、私自身が、小さなことを何年もかけて大きな恐怖に育ててしまった経験があるからです。
中学2年のころ、国語の授業で教科書を一人ずつ順番に読む時間や、音楽の授業で一人ずつ歌うテストがありました。あるとき、自分の番で声が震えて、途中で読めなくなりました。くわしくは前回の記事に書いています。
最初は、たった一回、声が震えただけでした。事実は、それだけです。
ところが、そこから私の心は、物語を作り始めました。
怖いのは、もう「読むこと」そのものではありませんでした。「また震えるかもしれない」と考えること、つまり自分の想像のほうが怖くなっていたのです。
そして、想像の恐怖が強くなるほど、本当に体がこわばって、また震えます。すると「やっぱりそうだ」と物語が強くなる。この輪をぐるぐる回るうちに、恐怖はどんどん大きくなり、学校生活のほとんどがその恐怖に占められるようになっていきました。
今振り返ると、声が震えたのは、ほんの何回かのことです。でも、その何回かを、私は何年もかけて、自分の心の中で大きく育て続けていました。
一度の失敗や、一度言われたひとことを、何度も何度も思い出しているうちに、本当の出来事よりずっと大きくなっていたこと。もしあるなら、それはあなたが弱いからではありません。人の心が、もともとそういう働き方をするからです。
大学1年のとき、私は学内のカウンセリング室で久野信先生に出会いました。何年も一人で抱えてきたことを話す私に、先生はあるとき、こう言いました。
人間は、自分の小さな小さな思いを、勝手に大きな大きな恐怖に作り替えてしまうんだよ。
そのときの私は、まさにそれをしている最中でした。震えたという小さな事実を、自分の手で大きな恐怖に作り替えて、その恐怖におびえていたのです。
先生は、だから震えを止めようとしなくていい、と言いました。そして、「筒井くんは、これから少しずつ鈍感になっていくといいよ」と。
当時は、正直なところ、すぐにはよくわかりませんでした。でも、「恐怖を作っているのは自分の心なんだ」と聞いて、少しほっとしたのを覚えています。外から来る恐怖なら逃げようがありませんが、自分で作っているものなら、作るのを少しずつやめていけるかもしれない。そう思えたからです。
それから何十年もたって、私は毎朝、神社で瞑想をするようになりました。テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老の法話を読んだり聞いたりするなかで、「小さな善から始まる」という法話に出会いました。
読みながら、何度も「先生と同じことを言っている」と思いました。私なりに要点をまとめると、こういう内容です。
長老は、人の心はもともと矛盾した働き方をする、と言います。難しく説明されると「もっと簡単に言ってくれ」と思うのに、簡単に説明されると「大したことじゃない」と軽く見てしまう。長老はこれを、心の「矛盾というOS(基本ソフト)」と呼んでいます。
この矛盾があるので、「なんとかしよう」と頑張るほど、心は逆の方へ動いてしまうことがある。震えを止めようとするほど震えが大きくなった私の経験と、ぴったり重なりました。
法話の中には、長老のもとに「怒りをなんとかしてほしい」「対人恐怖を簡単に治してほしい」と頼みに来る人の話が出てきます。長老は、一生かけて築いてきた問題を一秒で治すのは無理な話だ、と言います。
読んでいて、少し笑ってしまいました。中学生のころの私も、まさに「明日には震えなくなっていたい」と思っていたからです。一気に治そうとすること自体が、焦りという新しい物語を生んでいたのだと思います。
長老は、お釈迦さまの「善友に出会えば、仏道を完成する」という言葉を紹介しています。矛盾の中から一人の力だけで抜け出すのは難しい。だから、慈しみの心で導いてくれる先輩や師がいる、という話です。
私にとって、久野先生はまさにその「善き友」でした。2〜3時間、黙って話を聞いてくれたあの日がなければ、私は今も一人で恐怖を育て続けていたかもしれません。
では、どうすればいいのか。長老の答えは、とてもシンプルです。
一日で善人になろうとしない。
小さな小さな善いことから始める。
「今、この瞬間」に気づく。
法話には、こんな話が出てきます。お釈迦さまの時代、森で修行するお坊さんたちが、村に入る前に大切な衣を身につける場所がありました。そこは草がぼうぼうで、朝露で衣が濡れてしまう。それを見たある人が、「草くらい刈ってあげよう」と軽い気持ちで草を刈りました。
すると今度は、地面のぬかるみで衣が泥だらけになる。その人は何日もかけて砂利を運びました。やがて雨が降ると、今度は建物を建ててあげました。最初はただ草を刈っただけだったのに、気がつくと、建物を寄付するほどの大きな善いことができるようになっていたのです。
小さな善いことをして心に喜びを感じると、それが次の善いことにつながっていく。長老は、これが心の矛盾を破る方法だ、と言います。
そして、瞑想も同じだと言います。「二時間がんばる」と決めても、矛盾の心が邪魔をして続かない。でも「この瞬間だけ」なら、矛盾の心が邪魔をするすきがない。
久野先生の「少しずつ鈍感になっていくといい」という言葉も、同じことだったのだと思います。一気に変わろうとしないで、小さな場面を一つずつ重ねていく。何十年もたって、二人の師の言葉が、私の中でようやく一本の線でつながりました。

先生の言葉と長老の法話、そして私自身の経験から、今日から試せることを4つにまとめました。
気になることが頭から離れないときは、紙に二行だけ書いてみます。一行目は「実際に起きたこと」、二行目は「自分がつけ足した想像」。書いてみると、事実は一行で終わるほど小さいことに気づきます。
考えが止まらなくなったら、止めようとしなくていいので、心の中で「いま、話を大きくしているな」とつぶやいてみます。気づいた瞬間、物語は少しだけ勢いを失います。
足の裏が床についている感じ、息を吸って吐く感じ、手に持ったカップの温かさ。ほんの数秒、いま体で感じていることに注意を戻します。長くやろうとしなくて大丈夫です。
落ちているごみを拾う、店の人に「ありがとうございます」と言う、使った机をさっと拭く。小さなことで十分です。心が「自分の物語」から離れて、少し外を向きます。
正直に書くと、私は今でも小さなことを大きくしてしまいます。人前で話すと声が震えることもありますし、人とのちょっとしたやりとりを、あとから何度も思い返してしまう日もあります。
でも、昔と違うことがあります。物語がふくらみかけたときに、「あ、また作っているな」と気づけるようになったことです。気づけば、そこから先へは、あまり大きくなりません。
先生が言った「鈍感になる」とは、何も感じなくなることではなく、感じたものをいちいち大事件に育てないこと。長老の言う「小さな善から始まる」とは、一気に変わろうとせず、この瞬間の小さな一歩を重ねること。二つは、同じ道の話だったのだと思います。
次の回では、先生から「サラリーマンが苦手なら、資格を取って、人とあまり関わらない仕事をしたらいい」と言われ、資格を取り続けた20代のことを書こうと思います。
性格そのものを一気に変えるのは難しいと思います。ただ、気にしたあとに物語を大きくしない練習はできます。「事実」と「物語」を分けてみるだけでも、頭の中の大事件が、ふつうの出来事に戻っていくことがあります。
それは自然なことです。長老の法話にあるように、心は「なんとかしよう」とするほど逆へ動くことがあります。考えを止めようとせず、「いま考えているな」と気づくだけにしてみてください。止めようとしないほうが、かえって早く静まることが多いです。
役に立つと思います。ここで紹介したのは、宗教の儀式ではなく、心がどう働くかを観察するための考え方です。私の恩師の久野先生はカトリックの方でしたが、長老とまったく同じことを教えてくれました。
眠れない日が続く、食欲がない、仕事や学校に行けないなど、生活に大きな影響が出ているときは、一人で抱えずに心療内科や精神科、カウンセラーなどの専門家に相談してください。誰かに話すことは、それだけで大きな助けになります。
→ 起きた「事実」は、たいてい小さなこと
→ 心が「私」や過去・未来とつなげて物語を足し、大事件にしてしまう
→ 木にぶつかっても怒らないのに人だと怒るのは、物語のせい
→ 一気に治そうとせず、「この瞬間」に気づくことから始める
→ 小さな善いことを重ねると、心は少しずつ外を向いていく
→ 一人で抱えず、善き友に話す
小さなことを大きくしてしまうのは、あなたの心が弱いからではありません。人の心は、もともとそういう働き方をするものです。だからこそ、気づくことから始めればいい。
もし今、頭の中でふくらんだ悩みを一人で抱えているなら、私でよければお話を聞かせてください。話してみると、思っていたより小さなことだった、ということもよくあります。
気にしすぎてしまう性格、人前での緊張、働き方や生き方の悩み。
社会福祉士が、あなたのお話をじっくりうかがいます。
お名前・メールアドレスを入力し、ご相談内容をお書きください。

